映画『フォルナーリャの聖泉(仮)』製作支援のお願い

【概要】

仮題: フォルナーリャの聖泉
原題: Tres perdidos fazem um encontrado
英題: Three lost make one found
HD | Color | 40 min.

失恋の傷をいやすためにポルトガル南部にあると言われる聖なる泉を探す日本人とインド人の友による巡礼の旅を記録したドキュメンタリー・ロード・ムービー。ポルトガルの人々の生活や記憶、歴史や伝説などを垣間見せながら、他者との出会いの悲喜劇を描き出す。

 

【あらすじ】

好奇心・食欲旺盛で落ち着きのない日本人スシは、インド人の友人クリシュとともにどんな傷も癒すといわれるポルトガル南部の伝説の泉を目指す。その理由は、失恋の傷を癒すため。二人の旅の相棒は、1984年生まれのフォード2.4型キャンピングカー「ブリート」(「子ロバ」の意)。彼らは、フォルナーリャの聖泉と呼ばれる伝説の目的地に向けて、ヨーロッパで最も過疎率と自殺率の高いアレンテージョ地域の町や村を通りながら、様々な出会いを経験する。

初恋についての問いに対し、大好きだった人のことよりも、ソリの合わなかった以前のパートナーのことをよく話すヴィトール。彼は自分の傷心を癒してくれたという泉に二人を案内する。独りものとして移動映画館を続けるアントニオは、映画との出会いや仕事の喜び・苦労を語り、そのこだわりからか二人に細かく撮影の指導をする。芸術、音楽、人生を愛し、愛犬と路上をさすらうルイシは、ポルトガルの歴史の影にかき消された個人の経験や、若い頃の苦しみが与えてくれた教訓や人生の哲学を惜しみなく語る。

その他にも、この具体的かつ伝説的な目的地への旅は、道中での交流を引き起こす映画的な仕掛け「マクガフィン」として機能し、たわいのない会話や気前のいい歓待、親密な告白、滑稽な誤解や涙の別れなど出会いの瞬間を記録する。それらの邂逅のあいだには、車窓からの風景とともに出会いに対する省察や作家自身の経験が語られる。

それぞれの出会いに応じた様々なスタイルを組み合わせるだけでなく、ドキュメンタリーとフィクションが融合したロード・ムービー『フォルナーリャの聖泉(仮)』は、観光地からほど遠い田舎を訪れながら、大きな歴史から零れ落ちるポルトガルの人々の生活、経験、記憶、その土地との繋がりを垣間見せる。しかしそれ以上に、大きな違いを乗り越えて痛みや喜びを共有する者たちの悲喜劇を捉えることで、本作品は他者と生きる呼びかけとなるだろう。

【予告編】

【支援メニュー】

―支援A( 2,000円):
お礼メール + 映画『フォルナーリャの聖泉(仮)』スチール写真(データ) + エンドロールにお名前を記載
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―支援B( 5,000円):
+ 映画『フォルナーリャの聖泉(仮)』先行試写パーティにご招待(東京、福岡、その他3名以上の支援者がいる市町村でも開催を検討<2018夏> ※直接試写会にお越しになることができない方には日時限定でオンライン試写を実施。 + 映画『フォルナーリャの聖泉(仮)』プロダクションファイル
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―支援C(10,000円):
+ 欧州制作短編収録DVD(ポルトガル、ハンガリー、ベルギーで制作した短編ドキュメンタリー、アニメーション6作品<参照:https://sushikuwayama.com/>を収録) + ポルトガル映画アカデミー「ソフィア賞」受賞・HotDocs2017招待作『また次階!』プレスキット
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【支援受付期間】

2017年1月末まで

 

【制作の意図・動機】

生まれてこの方、アウトサイダーという立場に慣れてきた。家族、コミュニティー、学校、職場、祖国、いつもどこか不適応で周縁的だと感じ、同時に自分が属すべき場所の外にその居場所を見出してきた。例えば4歳のころ、私は行方不明になり、赤の他人の家の冷蔵庫から勝手に取り出したアイスを食べているところを発見された。家族に対しても、遠くにいるときより優しくなれる。このような経験が、ふらふらと徘徊し、異質な環境に安らぎを見出すという傾向を強めたようにも思える。

しかし同時に、この放浪者の喜びというのは常にある悲しみと脆弱さを伴ったものであった。二人の祖母と伯父の訃報を聞いたのはどれも自分が遠い異国の地にいたとき。仲の良い友人たちの慶事にも足を運べないことがほとんど。放浪者は親しい者の近くにいることができない。喪失さえも抱くことのできない哀しい距離だけでなく、ヨソモノでいるということは、叱責され、疑われ、辱められ、笑われることをも意味した。生きるために不可欠なものの頼み方や適切な振る舞い方さえ知らない。ある意味、外国語を学ぶというのも、積極的に自分を貶めることによって他にありうる現実を認識するプロセスの一部であった。言い換えるなら、慣れ親しんだ生活環境やコミュニケーションの基盤を失うことは、「できないようになることができる」ということである。出会いの閾値において触れ触れられる能力、作用し作用される能力を拡張する方法としての作業療法がここに始まる。喜びであると同時に哀しみであるこの両義的な感覚こそ、私がこのロードムービーを通して伝えたいことである。

グローバル化と情報化の進んだ現在、他者性を経験する機会は、逆説的に、しかし極端に減ってきている。スマートフォンは、行ったこともない場所への最適なルートや、そこで最も評価の高いレストランを勧める。見たことも聞いたこともない言語は単なるデータとしてAppに翻訳してもらえばいい。全てがよりスムーズに、そしてよりスマートになっていく。しかし、差異の厄介な接点を平坦にするプロセスは、人間の出会いの豊かで遊び心に満ちた表面を消失させているのかもしれない。人に道を聞く喜びを私たちはいつ忘れてしまったのだろう?ざらざらとした想像力を。「いいね!」原則に基づく社会は、他の現実というものを同質で消費可能な区別に還元している。これが、他者性の怖れに対して多文化主義が無力なままでいる理由である。

自由というのは他者の廃棄によってもたらされるものではなく、多様な他者への信頼から生じるものである。シェアされる大量の情報は不信感と手を組んで単にお互いの監視を進めてはしないか。私たちは自由となるために、そして呼吸するために、必ず他者を必要とする。そうでなければ、私たちは常に異質なものを怖れながらナルシスティックな鏡の中で窒息することになってしまうだろう。日本語で、「旅」という言葉は「他火(たび)」、他者の火に由来するという話がある。旅をするというのは、出会いの境界面で、脆弱にそして謙虚になることを学ぶということである。世界中の多くの巡礼が、未だにこの事実を証明している。このロード・ムービーは、ポルトガルの田舎の人々の生活や彼らの土地や歴史、伝説への関わり方についての報告となるであろう。しかしそれ以上に、この映画が他者を抱擁し、他者となり、他者と共に生きることを人々に呼びかける真摯な巡礼となることを心より願っている。

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